■■ 経歴 ■■

 講演や講義を求められるときなどに、プロフィールの提出も併せて求められることがままあります。そこでまず簡単にプロフィールをまとめます。

 1957(昭和32)年03月20日 世田谷区生まれ
 現在千葉市在住

 2002年4月より法政大学法学部教授(現在に至る)
 2008年4月より法政大学学生センター長(2014年3月まで)
 2009年4月より法政大学学生相談室長(2012年3月まで)
 2010年4月より法政大学市ヶ谷学生センター長(2011年5月まで)
 2013年6月より一般社団法人千葉県地方自治研究センター理事長(現在に至る)

 1986年中央大学大学院法学研究科政治学専攻博士前期課程修了(法学修士)
 高等学校非常勤講師、財団法人地方自治総合研究所研究員を経て
 法政大学法学部教授となり、現在に至る。

 主要研究領域  自治制度、消防行政、自治体議会、自治体政策および大学における学生生活支援と正課外教育

◆履歴略述

 上記プロフィールを以下に補います。
 私は、大学院の2年目から高校の教壇に立ちました。最初は1897年に創設されかつては進学校の雄として都内にその名が知られていたというかつての名門校でした。
 ところが、当時その学校は内部に深刻な問題を抱えていました。「政治経済」と「現代社会」の授業を担当していた私は、社会科主任の覚えめでたく、専任教員にならないかとの誘いを受けていましたが、教員の約半数を占めていた非常勤講師の大部分が一斉に抗議の意思を示して退職するに至る事件が発生し、その際に辞職しました。
 幸いなことに、翌年度からは神奈川県立高校の教壇に非常勤講師として引き続き立つことができました。私は、高校の教員としては、暴力事件が絶えない学校をはじめとするいわゆる教育困難校も経験しましたし、中学時代の成績が上位5位以内の者ばかりが集まる学校や帰国子女が多くを占める学校も経験しました。また、男子校の経験もある一方、女子ばかりの学級経験もあります。短期間の割には多種多様な側面を経験することで、同じく高校、同じく「政治経済」ないし「現代社会」の授業とはいえ、各校には独自の特徴があり、授業や生活指導の効果を高めるためにはそれぞれに工夫が必要なことがよくわかりました。

 1988年10月、偶然が重なり地方自治総合研究所に研究員として採用されました。31歳で初めての常勤職でした。高校の非常勤講師だけでは稼得は限られたものですので、履歴書には書きませんが、実はそれまでの私は予備校でも非常勤講師として週に1日だけ「日本史」を担当していました。その報酬は当時としては大きく、「裏社会」を見る思いをしていましたが、ようやくその世界から離れることができました。
 地方自治総合研究所には、13年6か月在籍しました。その間、日本全国各地に足を運ぶことができましたし、数多くの第一線に位置する研究者から指導を受けることもできました。明治以来の研究書も豊富にありましたし、霞ヶ関で交わされる最新最先端の議論に係る情報も時を置かずに入手することができました。2000年4月に機関委任事務制度が廃止される大改革がありましたが、それに至る分権改革の時期に地方自治総合研究所にいたことは、実に幸いでした。
 地方自治総合研究所には、私を含めて常勤の研究員が4名在籍していました。全国各地からさまざまな問い合わせの電話がかかってきましたが、電話を受けた者が責任をもって対応するというルールがありました。そこで、私の本来の専門は政治学でしたが、行政学のみならず、法律学や財政学などの分野についても、自治体に係る事柄を切り口に理解を進めていくことになりました。

 地方自治総合研究所の内規では、大学の非常勤講師等を兼務することが一定の条件の下で認められていました。私は、高校の非常勤講師時代に横浜市立大学の市民文化研究センターと文理学部で講師をした経験がありましたが(地域社会研究支援データベースの開発および「横浜の市民文化」担当)、中央大学社会科学研究所に客員研究員として「政府体系の研究」に参画したことを皮切りに、埼玉大学教育学部「地方行政論」、茨城大学法文学部「地方行政論」、神奈川大学法学部「地方自治論」、千葉大学普遍教育および法学部「現代地方自治」および「行政学」の非常勤講師を歴任し、2000年からは法政大学法学部「地方自治論」をやはり非常勤講師として担任しました。
 また、1997年09月からの2年間は財団法人連合総合生活開発研究所に研究員として出向しました。同研究所では、研究員とは名ばかりで、実際には主に自分の専門とは遠く離れた領域の研究を支える仕事に従事しました。とはいえ、当時の労働省および内閣府、あるいは日本を代表するともいえる大手企業からの出向者と机を並べた経験は、今にして思えば貴重なものでした。

 2002年の法政大学法学部への転職は、武藤博己教授の推薦によるものでした。実は、それまでにもいくつかの大学からお誘いをいただいておりましたが、事情がそれをゆるしませんでした。また、紹介を得て逆に大学の教員募集に応募したことも2度ほどありますが、いずれも最終段階で落選してしまいました。就職活動といえば、私はこれぐらいしか経験がありません。
 法政大学では、多くの政治学者がいる環境に恵まれ、私は自分の専門領域だけを担任すれば済みます。例外は、通信教育部のスクーリングを担当する番に当たったときだけで、「政治学概論」を講じます。
 いわゆる学内行政も大学教員の仕事に含まれますが、私は、2004年度は政治学科主任、2005年度は学生生活委員、2006年度は副学生部長、2007年度は法学部教授会主任のそれぞれを歴任しました。

 そして、2008年度に総長の指名により任期3年間の学生センター長を拝命しました。学生センターは、旧学生部が再編されたもので、キャリアセンターが所管する就職支援関係を除く学生生活全般の支援に当たります。学生センター長は、学校法人法政大学の評議員も兼ねます。
 さらに2009年度から、私はやはり任期3年間の学生相談室長を兼務しました。そして詳細は略しますが、2010年度からの学生相談室のあり方について抜本的な改革を断行しました。
 法政大学には、市ヶ谷校地、多摩校地、小金井校地の3キャンパスがありますが、学生センターは各校地のそれぞれにあり、各校地の学生センター長も2年間の任期で配置されています。学生センターの発足と同時に市ヶ谷学生センター長としては木原章経営学部教授が就任されていましたが、その後継人事はなかなかまとまりませんでした。そしてついに時間切れとなり、2010年度は、私が市ヶ谷学生センター長までも兼務することになりました。その状態は、2011年の05月まで続きましたが、同年06月から鈴木良則法学部教授が市ヶ谷学生センター長に就くことになり、ようやく解消しました。
 実は、法政大学は、授業中の教室に徒党を組んで入り込むなどの組織的な業務妨害に悩まされてきました。学園生活の安全と安心を守ること、とりわけ学生の安全を守ることはかつての学生部とそれを引き継いだ学生センターの主要な任務であります。とはいえ、これが実に厳しく、かつての学生部長には半年でお辞めになる方もいました。
 さまざまな痛みを伴いましたが、私の学生センター長が2期目になる頃から、ようやく大学構内に外部の者が侵入して繰り広げられる妨害行為はほとんど見られなくなりました。そして、一般学生に対する正課外教育活動が以前にも増してさまざまに展開されるようになりました。これには、さまざまなタイプの高校で教壇に立った私の経験が、いろいろと役に立っているような気もしています。

◆紹介記事等

 私自身と私のゼミナールは、これまでに何度か取材を受け、紹介されたことがあります。
 法政大学が長く実力行使を伴う組織的な業務妨害に悩まされてきたことは他にも記しましたが、かつての学生部長は、そうした大学外の過激な集団にとっては格好の攻撃対象でした。その職を引き継いだ初代の学生センター長たる私についても事情は同じです。毎日のように繰り返される正門前の拡声器を用いた大音量のアジ演説や最寄り駅の近辺等で誰彼なく手渡される宣伝ビラには事実無根の内容満載ですが、それには私に関する誹謗中傷などが含まれることもあります。そうしたデマ情報等は、インターネット上にもバラ撒かれています。転載は容易ですからいちいち否定することも困難ですし、名誉毀損等で法的手段に訴えようにもインターネット上にアップロードした人物を特定することすらほとんど不可能です。海外のサーバーにデータが置かれることもあり、削除要請にも応じてもらえません。私は脅迫を受けたこともあり、警察に相談するとともに、被害届けも提出しています。実は、このウェブサイトに比較的詳しく私自身の情報を載せている背景には、このような事情もあります。
 というわけで、ここにご覧いただけるようにする紹介記事は、当面は法政大学の広報によるものに限ります。

 私自身に関する紹介記事は、2004年9月に発行された雑誌『法政』第31巻第7号22~23頁の「興味津々…」を採りあげました。オリジナルを大切にして  pdf   形式のファイルにリンクさせます。

 私の学部ゼミナールについての紹介記事は、法政大学のウェブサイトに掲載され、現在でもご覧戴けます。そこで直接リンクを張ることにします。

◆生い立ち

【郷土】
 もともとの出身地は、父方、母方ともに千葉県香取郡東庄町です。そこは、天保水滸伝の舞台となった利根川沿いのところで、銚子市と香取市の間にあります。
 父方、母方ともにもともと農家ですが、父方の家は代々お宮の鍵を預かっています(苗字と関係があるか否かは不明です)。祖父が北海道に渡り、父は道産子です。母方の曾祖母は武家の出で旧姓は東(あずま)といいます。眉を剃り落としお歯黒をしていました。その姿は幼心にとても不思議に映りましたが、かつて武家に伝わる既婚者の証と聞かされました。東庄町および同町にある東大社(近年では東大の合格祈願をする受験生が訪れるという神社)の双方とも、その名称は東家と関係があるかもしれません。ちなみに、私も弟も結婚式はこの東大社で挙げました。

【出生】
 1957年 3月20日(水)、東京都世田谷区に生まれました。
 生まれたところは、三軒茶屋の島崎産院ですが、同産院の跡地は民家になっているようです。

【幼児期】
 幼児期は、目黒区東山に過ごしました。地域の「こどもかい」から枝光学園幼稚園に入園しました。
 私が暮らした地域はいわゆる「ザーマス言葉」の世界でした。「おはよう」も「こんにちは」も「さようなら」もなく、それらは全て「ごきげんよう」と言っていました。
 私は、3歳のときに補助輪なしの自転車に乗ることができるようになりました。子ども用の小さな青い自転車を得意になって乗り回した記憶があります。ちょっとだけ自慢したくなるエピソードです。父に感謝! 坂の下にあった入口に猿の檻があるラーメン屋さんの店内に自転車ごと飛び込んだ記憶もあります。

【小学校】
 目黒区立東山小学校(最初の担任の先生は、忘れもしない大野福三郎先生)から、2年生のときに世田谷区立用賀小学校に転校しました。
 小学校の3年生になって、ようやく泳げるようになりました。とはいえ、6年生のときには平泳ぎの選手になっていました。東京都大会で代々木オリンピックプールの真ん中コースのスタート台に立ちました。ところが、ちょっと水を胸に当てようとしてポチャン! 水面から見るとまさに絶壁でした。元の場所には戻れず、さりとてプールサイドは遥かかなたの先でした。コースロープにつかまってはならずと厳しい指導を受けていたので、バタバタとあわてるばかりの状態になり、見るに見かねた計測員の方が手を伸ばしてくださり、やっとのことで「救出」されました。そうなると、頭の中は「フライングしたら、悪夢再び」とそればかりになりました。よ~いドン! で、飛び込んだとき、両隣のコースの選手の足が見えた記憶が今でも脳裏に残っています。

【中学校】
 世田谷区立用賀中学校に進み、2年生まで水泳部に所属しました。
 生徒会活動がたいへん盛んな学校でした。2つの「党派」があり、選挙戦が繰り広げられました。振り返ってみれば先生方の度量も深く、制服廃止、校門の位置変更など生徒会の主張は数多く実現しました。同校は現在もありますが、制服はいつの頃からか復活したそうです。

【高等学校】
 千葉市宮野木町に両親が新築した家に転居しました。県立千葉東高等学校に入学し、写真研究部と音楽部に所属しました。
 当時、都立高校は3教科入試でしたが、千葉県立高校は5教科入試でした。県外からの受験はたいへん厳しいものでした。国語の問題で「めじろ押し」の意味を問う問題がありましたが、文の前後から判断して「寒さに震える様子」とひっかけの選択肢を選ぶ誤答をしたことが忘れられず、今日なお悔やんでいます。
 写真研究部は1年生の始めから、音楽部(混声合唱)には級友に誘われて途中から入部しました。3年生のとき新入生の小管方子(こすげまさこ)が入部してきました。後に私の配偶者になる女性です。ちなみに、彼女が3年生のときには新入生の利久(としひさ)も入部しました。利久は私の弟で、私たちは2人兄弟です。彼氏は、県立高校の教諭に職を得ますが、後に母校である千葉東高校にも赴任しました。

【予備校、そして大学】
 私は大学受験に失敗し、1年間の浪人生活を経験しました。そして大学へと進学するのですが、そのあたりの事情や大学における学生生活については、改めて稿をまとめることにします。
 おそらくここまで読み進んだ方、とりわけ学生諸君にとっては最も興味があるところかもしれませんが、今しばらくお待ちください。