■■ 信条・嗜好 ■■

◆信条


 私は、自分自身の思想信条に係ることを明らかにすることはあまり好みません。たとえば支持する政党について、私は両親をはじめ連れ合いや子どもにも話したことがありません。
 政治学の研究者に目の前に展開する現実政治に積極的な関与をしようとする者がいることは否定できません。さらに進んで積極的に関与するべきと考える者もいます。私は、そのこと自体を否定しようとは思いませんが、私自身は違います。
 と政治学を志して以来ずっと思い、所信を尋ねられれば答えてきました。しかし今や、そうした態度の極限に位置するかもしれないシニシズム(冷笑主義)の方向に自分を置いてはいけない世情が進行していることを自覚しています。
 あらためて指摘するまでもないことですが、一般に「思う」と「行う」はまったく別のことです。「内心」は自由ですが、「行為」には責任と社会的制約が伴います。現実政治の世界には憲法を遵守することを善しとする価値観ないし倫理観よりも優先するべき価値がある、と「考えること」と、実際に憲法の規定ないしその背後にある理念を踏み越える法制度の策定を「強行すること」はまったく違います。そうした強行の後に、それに合うように憲法自体の条文を変える策動は、立憲主義すなわち憲法そのものを否定する行為にほかなりません。
 私は、立憲主義をないがしろにする政治家の行為を断じて許せません。
 いわゆる「集団的自衛権」の行使が現行憲法と相容れないことは憲法学を考究する学者研究者ならずとも法学ないし政治学を研究するほとんどの者に共通する理解であり、私もまったく疑いを挟みません。
 しかしながら、私は直ちに現実政治の世界に飛び込もうとは思いません。そうしたところで立憲主義が現下の深刻な危機から脱することができるとは到底思えません。
 これまた一般的な話ですが、私は、教育の力を信じます。私は、高等教育を担う一員として自らの責任を自覚し、良心に恥じない教育に努めようと決意を新たにしました。
 私は、立憲主義をないがしろにする政治家の行為を断じて許しません。

 

◆尊敬する人物


 私が尊敬する人物の全てをここに挙げることはとうていできません。それは、数が多いからではありません。あえて表現すれば、尊敬の念を抱く方とそれ以外の方々を区分けする術を知らないからです。尊敬する方を挙げるということは、そこに漏らした方に失礼をすることにもなりかねません。いや、その選別の行為自体が非礼なようにも思えます。
 などと、いろいろ思うところはあるのですが、思い切ってここには極めて限定的に尊敬する人物を記すことにします。

 第1に尊敬する人物は、私の父親、宮﨑義夫です。

 父は、1924年10月1日に現在の網走市に生まれ、2015年のあと2日で91歳という9月29日に亡くなりました。
 父は、警察官であった祖父の転勤に伴って網走市から夕張市、岩見沢市そして旭川市と道内を移動した後、単身津軽海峡を渡り、早稲田大学附属第二早稲田高等学院(旧制)そして早稲田大学に学びました。少年期に大病を患ったために同級生はみな年下でした。銀行の見習(日給50銭)や郵便局(日給1円10銭~15銭)で働きながら旭川夜間中学(現在北海道立旭川東高等学校)に通うなど、いろいろと苦労を重ねていました。バスケットボールの選手として全道大会に出場したという話も聞かされていますが、若き日の伯母からは、いつも机に向かっていたという話を聞いたことがあります。かつて得た病のために徴兵されることはありませんでしたが、なぜか敗戦を知らせる「玉音放送」が流れることを事前に知り、その時刻は北海道に帰る列車の中であったということです。
 大学では、久保田明光教授の下で経済学を学んだそうで、今でも同教授の著書は本棚にあります。とはいえ、当時は学問よりは日々の暮らしに追われていたそうです。ちなみに、若き日の父はヘビースモーカーでしたが、母(宮﨑せつ)の懐妊を知らされたときにピタリと止め、以来1本も喫っていないそうです。私の名前にある「光」は、好んで喫っていたタバコの銘柄に由来するのではないか、と同僚に冷やかされたそうですが、実は、この恩師から1本、いや1文字戴いたということです。なお、私自身はこれまでにタバコを喫いたいと思ったことがなく、喫煙経験はありません。
 大学卒業後、社会党の初代北海道委員長で農民運動やアイヌ民族への土地解放運動を進めた木下源吾参議院議員のすすめもあり、父は参議院の事務局に職を得ます。
 私が父親を尊敬する最大の理由は、ずっと隠してきましたが、当事者の双方がすでに亡くなった今はもう明らかにしても良いでしょう。実は、父は「カミソリ後藤田」と異名を取った自民党の大物代議士後藤田正晴氏(故人)から、参議院議員への転進を誘われたことがあります。そのとき父は毅然とした態度で理路整然とお断りしました。その際に交わされた具体的な言葉のやりとりを聞き、私は衝撃と共に感銘を受けたのでした。誤解を恐れずに記しますと、私は政治の世界における後藤田正晴氏の立場と行為を支持しませんが、その人格の一端には敬意を禁じ得ません。

 

 父を除くと、尊敬する人物は、まず土門拳という写真家です。

 リアリズム写真の大御所として世界的にも著名な方で、「古寺巡礼」「るみえちゃんはお父さんが死んだ」などの作品が知られています。
 実は、まだ私が母の胎内にいる頃、世田谷区三軒茶屋の借間で裁縫の内職をする母を彼が撮り、雑誌『世界』に掲載されたことがあります。両親によれば、添えられた文章には誤りが含まれているそうですが、その写真は今見ても見る者に訴えかける力のある作品です。
 私自身が初対面の機会を得たのは大学生になってからでしたが、そのときにはすでに車椅子の生活を余儀なくされていました。しかしながら、大型写真機による旺盛な撮影活動はお弟子さんの力を得て続けられていました。
 私が、広義の報道写真を志したのは、この土門拳という写真家にあこがれてのことでした。

 

 学生時代の私には、2人の師匠がいます。今井清一先生と横山桂次先生です。

 今井清一先生は、私の父親とは同じ1924年のお生まれですが、2月生まれですので、学齢としては1つ上ということになります。
 研究者の世界に入って驚いたことの1つに、師匠の名前がついてくることがあります。私は何度も「今井先生のお弟子さんなら、お酒が好きで、強いでしょう」と言われました。確かに今井先生は、お酒を召し上がることも、また振る舞うこともお好きです。学生時代に先生と過ごした貴重な時間は、教室の中よりも居酒屋の方が長かったことも事実です。先生は、只ではごちそうしてくれず、「宮﨑君は500円出しなさい」と言われるのが常でした。
 今井先生が、有名な昭和史論争の当事者であることは、正直なところゼミに入るまで知りませんでした。ゼミは、極めて少人数でしたので、先輩が読み進められていた近代史の史料解読に加わるのはとても厳しいことでした。
 先生は、歴史研究は職人芸だから、という優しい表現で、私にはムリということを諭されました。先生は、戦間期を中心とした日本におけるファシズム研究の泰斗ですが、ご研究の幅は広く、近現代日本の都市問題にもたいへん深い考察を重ねられています。私は横浜をフィールドとして都市化社会化の諸問題に関心を寄せました。
 ちなみに、今井先生の師匠は丸山真男教授で、先生の奥様である楊子さんの御尊父は尾崎秀実氏です。その書簡集『愛情はふる星のごとく』には、娘の楊子さんばかりでなく、今井先生のお名前も見ることができます。

 

 横山桂次先生は、私の大学院時代の指導教授ですが、学部時代に非常勤講師として担当されていた授業を、私は毎年繰り返し受講していました。私にはその理由がわからなかったのですが、受講生は少なく、教室の中は私と先生だけということも何回かありました。
 大学院では、学部ゼミナールのかなりの部分を任されましたが、アットホームな雰囲気は、私自身のゼミナールの運営方式に継承されているようにも思えます。先生からは、政治意識調査についても多くを学びました。ある調査を終えた後、グラフ作りの作業があるからと自宅に呼ばれたときには、まったく予想していなかったのですが、帰宅が許されずそのまま何泊かの作業になりました。それも今から思えば良い修行であったと思います。
 先生は中央大学を定年退職されると高岡法科大学に招かれ、すぐその翌年には同大学の学長として重責を担われました。そして誠に残念ながら2008年12月に88歳で亡くなりました。

 

 直接授業を受講したことはなくとも、尊敬している先生として村橋克彦横浜市立大学名誉教授と内藤辰巳山形大学名誉教授のお名前は欠かせません。

 詳しくは省きますが、横浜市大経済研究所の当時助教授であった村橋先生の自腹を切った大胆なご支援がなければ、私は大学院進学を果たすことはできませんでした。先生は、2011年3月に67歳で亡くなりましたが、私がその事実を知ったのは翌年の年賀状に対する奥様からの返信でした。悔やまれます。

 内藤先生は、私がまだ数学科の学生で、先生が関東学院大学の教授であったときに知己を得ました。先生は、大学院に進んだ私に研究者としての心構えを諭されたばかりではなく、その後共著に発表の場をくださいました。後々私が法政大学において学生センター長への就任要請を受諾したことも、先生から伺った「決して一流とはいえない研究者が果たすべき役割」に関するお話に触発された面が少なくありません。

 

◆好き嫌い


 好き嫌いといえば、まずは食べ物でしょう。

 大の好物は何と言っても蕎麦です。かつて旨い店があると耳にすれば、どこ構わずクルマを走らせていたこともあり、それは関東にとどまらず東北にまで及んでいました。
 そのようすを見た信州出身のある人から、「蕎麦好きになるとも、蕎麦通になるな」と諭されたことがあります。それは含蓄の深い言葉だと、そのときも、そして今も思っています。
 蕎麦の何が好きかと問われれば、一も二もなく「香り」と答えます。蕎麦は技を含めて味わうものと決めており、自分で打とうとはまったく思いません。

 逆に、嫌いな食べ物、というより生理的に躰が受け付けないものが1つだけあります。これは想像するだけで躰が反応するので、その文字も見たくありません。
 子どもの頃には偏食が激しく、両親を悩ませていました。しかし、高校生になり各地を旅するようになってからは、ユースホステルでは食べ物を残すまいと決意したことで、かなり克服することができました。さらに酒をたしなむようになってからは、肴がすべて旨く感じるようになりました。
 とはいえ、やはりどちらかといえば苦手に属する食べ物もあります。「オクラ」がそれです。学生時代に40日程度の入院生活を経験したことがありますが、なぜか毎日手を変え品を変え、ベッドの上の食卓に乗っていたことが思い出されます。
 ほかに、好きでも嫌いでもないのですが、「ミョウガ」はなるべく食べないようにしています。古来より「食べると物忘れをするようになる」といわれているものをなぜ食べようとする人がいるのでしょう。もちろん迷信かもしれませんが、往々にして言い伝えにはそれなりの科学的根拠がある場合もあります。私には理解できません。

 好き嫌いとは別に、弱い食べ物もあります。それは甘味です。決して嫌いではないので美味しいと感じることもありますが、極ごく少量で充分です。すぐに「もうたくさん」ということになってしまいます。これは幼少の時分からそうで、今に至るも改まりません。

 

 好きなものの次の代表格はお酒です。

 私は「酒をたしなむ」とすでに記しました。「たしなむ」を超えた酒の勢いでやらかした失敗は数限りないほどあります。また正直なところ、酒席で交わす話のかなりの部分は記憶に残りません。おそらくテキトーにいい加減な話をしているのでしょう。付き合わされる多くの方にご迷惑をかけてきたのではないか、と他人事のように思うこともあります。
 それでも私は、自分が酒を飲める体質で本当に良かったと思っています。酒食で交わる時は心から楽しめます。そして、実はそこから調査研究が始まり進展することも少なくありません。

 酒の種類で最も好きなのは日本酒です。全国各地にいろいろな味があり、興味が尽きません。旨いお酒は美味しい肴でゆっくり楽しみたい。贔屓の小料理屋がある、なんて粋だと思いますが、なかなかそうはいきません。
 仲間と、あるいは学生と、わいわい言いながら飲むのも楽しいと思います。ただ、なぜか安手の居酒屋はやたらと五月蝿いので興が冷めることもあります。

 一方、好きになれない飲み屋は何度か連れて行かれたことがある「おかまバー」。失礼とは思ったものの、我慢できずに早々に退散したこともあります。いわゆるキャバクラに行ったこともありますが、正直なところ、面白くありません。これまた連れて行ってくれた人には申し訳ないのですが、楽しい思いをしたことも美味しい思いをしたこともまったくありません。
 そうした話を同僚にしたところ、おかまバーにせよキャバクラにせよ、安いところに行くからだ、と反論されたことがあります。それはそうなのかもしれませんが、だからといって高級なところ?に挑む気にはなりません。
 ただ、今は消滅してしまいましたが、かつて規模の大きなキャバレーに連れて行かれ、まったく別の印象を得たこともあります。歌と踊りのショーは見事でしたし、接客にあたる女性の会話には教養と知性を感じました。その記憶があったため、消防行政の欧州調査でパリに滞在した際に、同行した消防士の強い希望を受けて老舗の有名キャバレーに行ったことがあります。電話で予約を入れたときの英語の応対に始まり、いわゆる接遇やショーはもちろん、酒と共に出される料理に至るまで、まさにエンターテイメントとしての配慮が行き届いており、ある種の感動すら覚えました。そのときのお支払いはもちろん自腹だったのですが、決して不当な金額とは感じませんでした。

 

 日本酒だけでなく、洋酒もまんざら悪くないと思います。

 とりわけシングルモルト・ウィスキーは味も香りもさまざまで楽しめます。通に言わせると、ウィスキーはブレンドが勝負という人も多いのですが、私の好みは違います。もっとも、年齢を重ねて行くと好み自体に変化が起きました。一時期だんだんスモーキーな香りを求めるようになり、スコッチの産地でいうと北上する傾向がありましたが、今はその峠も超え、香りに複雑な奥行きを感じるダブルないしトリプル・カスクがお気に入りです。
 香りといえば、ブランデーも好きです。名古屋以西では、どうしてブランデーを水割りにするのでしょう。せっかくの香りが台無しです。ブランデーは置いてあってもブランデーグラスがない店も少なくないようです。腹が立つと言えば言葉が過ぎるでしょうか。

 中国で信じられないほど安く強い酒を現地の肉体労働者と共にあおったことや、韓国で甕からすくったマッコリを海を臨む丘の上で楽しんだことなど、酒にまつわる心地よい思い出はたくさんあります。
 何を飲むかも大切ですが、誰と、どこで、どのように飲むかも負けず劣らず重要な要素に違いないと思います。

 

 好き嫌いでは、スポーツについて尋ねられることもあります。

 近年めっきり運動する機会が減り、「人間が丸くなる一方」とごまかしている体型の変化にそれが現れています。
 もともと躰を動かすことは嫌いではありません。むしろ、球技をはじめ、さまざまな種目を楽しんできたと思います。そうしたなかでも水泳、山歩きおよびスキーは大好きでした。

 水泳は、中学生の頃は競技スポーツとして親しんでいました。高校ではまったく離れていましたが、大学生のとき、授業をサボって誰もいない6月の逗子海岸で泳いだことがあります。就職して全国各地を巡るようになると、どこへ行くにも水着は必ず持参し、暇があれば泳いでいました。もっとも、プールで泳ぎを覚えただけに海はどちらかといえばあまり得意ではなく、しだいに水着は持ち歩くだけになってしまいました。
 スキューバダイビングやシュノーケリングの経験もわずかですが、あります。もっと若いときに体験していれば、あるいはのめり込んでいたかもしれません。

 山歩きは大学の同期生に誘われて本格的に始めました。カメラを抱えての山行です。奥秩父の縦走に始まり、3,000メートル級の日本アルプスも巡りました。槍ヶ岳(3,180メートル)には3度挑みましたが、悪天候や高山病などでついに登頂できませんでした。
 ここで「登山」とせず「山歩き」と記しているのは、登頂が主な目的ではなかったからです。大自然に囲まれたときに得られる感動を求めて歩きましたが、今や離れて久しく、体力の面でまったく自信がありません。もうムリです。

 スキーは、幼少期に父から教わりました。想像がつかないかもしれませんが、リフトなどの設備がない斜面で転び方から始まりました。当時のスキーは、どんな転び方をしても靴からはずれません。スキー靴自体は革製の編み上げ靴ですが、プラスチック製ほどではないにしろ固く、変な転び方をすると即骨折です。近年のゲレンデスキーとは違い、父が教えるスキーは、崖のような斜面から怪我をせずに降りてくることを目指すようなものでした。スキーを履いたまま丸木橋を渡る練習もしました。多分現在でも私は丸太の一本橋をスキーで渡ることができると思います。
 ここ数年スキーは年に1回程度になってしまいました。とはいえ、その1回はとても楽しく過ごしています。

 

 最も苦手なことは絵を描くことです。

 子どものころより、図画工作は大の苦手でした。図工の時間は苦痛で、高校に入って美術が音楽、書道と共に選択科目になったことは喜びでした。もちろん選択したのは音楽です。
 今でも私は、人がどのような服装をしていたかが記憶に残りません。おそらくこれは絵を描く能力と密接に関わりがあるのではないかと思います。法政大学で学生相談室長を拝命したことをきっかけとして触れた心理学や関係する医学書から得られた知見から、私自身の発達系にどこか歪なところがあるのではないかと思うようになりました。
 なお私は、教育上よろしくないと思い、いくらせがまれても自分の子どもの前では一切絵を描いたことがありません。
 ただ、「下手の横好き」という言葉があります。日本日曜大工クラブの理事長を務めたり、日曜大工の著作もある父の影響でしょうか、ときどき工作の類に挑戦したくなります。そして、ほとんどの場合に悲惨な結末を迎えています。

 

◆趣味


 趣味とは何か、と考えると案外難しいもので、私の趣味を真正面から尋ねられると答えにくいものですが、あえて挙げるとするならば、写真、旅行そしてパソコンということになるでしょう。

[写真]
 写真は、高校生の頃より本格的に始め、大学生になっては建築写真を得意とした故石角茂氏の助手をしながら技術を身につけました。卒業アルバムを作成するために小学校の運動会を撮ったり、臨海学校・林間学校に写真屋さんとして同行したことも数多くあります。大学内のサークル活動では写真研究部の部長を務め、新聞社で高校野球の報道写真を撮影するアルバイトも経験しました。商品撮影、スタジオ撮影から山岳写真まで、さまざまな分野をそれなりにこなしましたが、どうも女性のポートレートだけは苦手でした。
 なお、大学院の入学金や初年度の授業料等は、写真で稼いだお金で賄いました。

 写真機には愛着を感じる方で、古い物をずっと使い続けていました。小型カメラはニコンF、大型カメラはリンホフ・スーパーテヒニカ、といずれも名機の誉れが高いものです。もっとも、使用頻度でいえば中判カメラのゼンザブロニカETR-Siが1番でした。
 こうしたカメラで撮る写真の表現力を知る者としては、デジタルカメラは長らく写真機として認められるものではありませんでした。ところがある日弟から「メモ代わり」に便利と勧められ、ようやく試してみる気になりました。使ってみると確かに画像に込められる情報が桁違いの量と質を兼ね備えることがわかり、それまでのカメラとは別の目的に役立つことがわかりました。

 一時期は、デジタル写真を加工するためだけにパソコンをマッキントッシュに替えたこともありました。しかし、なぜかどうにも馴染めませんでした。その後、ソフト・ハードとも長足の進歩が急速に進み、さまざまな用途にデジタルカメラを使う環境が整ってきました。自宅を建てたとき2階に造ることができた念願の暗室は、まったく使われることがなくなり、今ではもっぱら物置の様相を呈しています。

 2014年3月末に学生センター長を退任する際、私には密かな楽しみがありました。それは、ようやく画像解像力に満足がいくレベルに達したばかりか、旧来のニコンレンズがそのまま使用可能なニコンDfというカメラを入手することでした。それもヨドバシカメラがポイントカードのシステムをいち早く導入して以来、ずっと貯め続けたポイントを一気に充当して購入することでした。実際、わずかな現金を添えるのみで同機とズームレンズを入手しました。そして今に至るもメインの機種として撮影を楽しんでいます。

 

[旅行]
 旅行といえば、自分自身で企画した初めての旅は、13歳のときの羽越本線鼠ヶ関駅までの往復でした。上野発の夜行列車、急行鳥海号で新津駅まで行き、そこから鼠ヶ関駅までの区間で当時の国鉄が企画したイベントに参加しました。帰りはまた、新津駅から同じ夜行の急行列車で、椅子席でしたが熟睡して帰京しました。

 高校1年生の夏休みには、当時小学校6年生だった弟と2人で北海道をグルリ回りました。札幌では小学校2年生の冬に父親に連れられて来たときの記憶をたどり、迷わず要所を巡ることができました。これはちょっとした自慢のタネですが、今にして思えば2人旅を許した両親の度量にただただ感謝あるのみです。

 学生時代もずいぶん各地を巡りました。ただ九州には渡ったことがありませんでした。しかし、それも地方自治総合研究所に勤めてほどなく達することになり、気づけば全都道府県に足を運ぶ機会に恵まれていました。
 また、2015年の札幌移住に際しては、国内留学の本来目的以外に、道内市町村をできるだけ多く踏破するという目標を立てました。道内には179の市町村がありますが、連れ合いと共に精力的に巡り、8自治体を残すばかりになりました。
 そして、翌2016年と2017年にかけて、さらに北海道を訪ね、道内全市町村踏破を達成しました。なお、北方領土以外の有人離島もすべて訪ねています。
 地元千葉県については、関宿町に行ったことがなかったのですが、同町は2003年6月に野田市に編入されて消滅しましたので、結果として県内全市町村に行ったことがあることになりました。私の連れ合いはかつての仕事の関係で県内全市町村を私よりも先に訪ねていますので、夫婦揃って、千葉県と北海道の全市町村に足を運んだことがあるということになります。

 

 これだけ各地を回っていることを語ると、どこが最も好きですか、あるいは最も素敵な場所はどこですか、という質問をよく受けます。しかし、その質問に答えることはできそうにありません。いろいろなところに足を運ぶたびに、自分自身の小ささがわかります。それこそ旅の醍醐味ではないかと思います。1人の人間が体験しうる空間ないし社会は実に限られています。日常生活を離れ、馴染みのない世界に足を運ぶたびに、多様な現実に直面しますし、興味は尽きません。ほとんどの旅先が、それぞれに好きになります。

 まして海外旅行ともなれば、はじめから自分の知らない世界があることを予想して彼の地に向かいます。言葉すら通じないことが、むしろ普通です。日本の常識が通じない社会を実感することも海外を旅する面白さにほかなりません。
 初めての海外旅行の際に立ち寄ったニューヨークでは、恐怖の体験をするなど人間の醜悪な側面を目の当たりにしましたが( 軽い読み物 のページ「渡る世界に鬼はない?―ニューヨークで命の値段を値切った話」参照)、一方リュックサックを背に狭い国土の隅々までも歩き回ったリヒテンシュタインの一人旅では、人々の優しさに包まれたような気分も味わいました。これまでに足を運んだ国・地域は、重複を省いて訪ねた順に示すと、イギリス・オランダ・ドイツ・旧東ドイツ・スイス・フランス・アメリカ・オーストリア・リヒテンシュタイン・ベルギー・韓国・香港・中国・グアム・台湾・北朝鮮・オーストラリア・スペイン・マカオ・イタリア・バチカン市国・ハンガリー・チェコ・マレーシアですが、このうち北朝鮮は板門店で少し38度線を越えただけです。また、飛行機の乗り換えで立ち寄っただけの国を加えるとすればロシア・シンガポールがこれらに加わります。複数回訪ねた国・地域もいくつかありますが、なかでもイギリス・ドイツ・中国がそれぞれ期間は短いものの数回重ねて訪問しています。

 

[パソコン]
 パソコンとの付き合いは長く、大学生のときにまで遡ることができます。当時は、コンピュータ(「コンピューター」ではなく「コンピュータ」と表記されていました)といえば、紙製のIBMカードを用いてデータを入力する大型汎用機がイメージされる時代でした。私は、キーボード入力が当たり前の時代がきっと来ると確信し、時間にゆとりのあった大学4年生のときにタイプライターの実務講座を受講しました(実は、履歴書には書きませんが、その際に英文タイプの級も取得しました)。
 文科理科を通じて学部の学生であった時代は、FORTRANやBASICといったコンピュータ言語でプログラムを組み、NECのPC8001など今振り返れば玩具のようなパソコンで住民意識調査の集計などを行っていました。
 修士論文は、当時ようやく個人用として商品化され、初めて電池で駆動することができるようになった「OASYS Lite」というワープロで印字し、ページなどを切り貼りして作成しました。このワープロは、白黒の液晶画面でしたが、わずかに8文字しか表示することができませんでした。また、本体の記憶容量はA4版2枚分の文章が限界で、それ以上のデータは外部に接続したカセットテープに記録しました。当時の中央大学大学院にはワープロを用いて修士論文を作成し提出した者はまだ誰もおらず、私がそのさきがけとなりました。
 地方自治総合研究所に職を得てからしばらくの間は、データベースなどパソコン用のソフトウェアを自分で開発していました。しかし、しばらくするとその保守管理にまで手が回らなくなり、Windowsが一般化するころには手を引きました。

 

 研究者にとってパソコンは道具にほかなりません。どの分野の職人でも、道具は自作するのが当たり前というわけで、パソコンも自分で組み立てるようになりました。仕事用のメイン・パソコン「酔脳1号」(2002年)をはじめ、古い記憶媒体を活用できる「酔脳2号」、トランクケースにすっぽり入った携帯用(ただし、ずっしり重い)「酔脳3号」、サラウンド音響システムによりDVD観賞を楽しめる「酔脳4号」、とそれぞれ特徴のある4機を作成しましたが、そこでひとまず区切りをつけました。
 パソコンの組み立てを再開したのは、2010年の夏休みでした。この年は法政大学学生センター長と学生相談室長に加えて市ヶ谷学生センター長の職までも兼任する超々多忙なときでした。ようやく取ることができた夏休みに研究活動を再開しようと思い立ちましたが、このときすでに仕事用のメイン・パソコン「酔脳1号」のOS(オペレーションシステム:基本ソフト)として採用していたWindows2000のサポートが終了していたこともあり、新しい道具作りに取り組みました。新しいOSにWindows 7 (64ビット版)を採用するなど、一部に最新の技術を取り入れた反面、不調を抱えていたDVD観賞用「酔脳4号」を解体し「臓器提供」ドナーとすることでコストカットをはかりました。
 この「酔脳5号」は、一部にバランスを欠く仕様ではありますが、あくまで仕事用のメイン・パソコンとしての機能を重視しており(詳しくは技術情報のページに記載する予定です)、その後に部分的改造は加えましたが、基本構造はそのままに現在でも第一線で活躍しています。

 

◆特技


 上に記した3つの趣味はそれぞれに好きなことです。世に「好きこそものの上手なれ」という言葉もありますが、好きなことに費やすエネルギーは苦ではなく、ひとりでに「上手」になっていくものと思います。私に特技と言えるようなものがあるかどうかはわかりませんが、敢えて挙げるとするならば、上記3趣味に関わることに違いはありません。

 すなわち、まず写真に関わることといえば、撮影技術ばかりでなく、暗室作業や修正作業についても、それぞれの基礎をふまえた上で応用が利きます。もっとも、写真撮影はそれで稼いでいた時期もあるわけですから、普通の素人レベルでは話になりません。一方、暗室作業といっても白黒フィルムや印画紙ですから、今ではほとんど役に立たない技術です。また、修正作業は白黒の筆でカラー写真の修正までも行うのですが、これこそ修得するのには大変な時間と労力を要するのですが、今日まったく披露する場がなくなってしまいました。デジタル画像の修正は、その基礎にこの修正技術があるのですが、それをまったく知らなくとも、パソコン上で簡単に操作できる時代になりました。

 次に旅行に関わることといえば、国内各地の地理に詳しいことでしょうか。学生との会話の中でしばしば学生に驚かれることがあります。もっとも、いくら地元のこととはいえ、学生はついこの間まで高校生ですから、その知識の範囲は限られます。プロとアマチュアの差といえば当たり前のようにも感じます。なお、私は高校時代の「地理」は苦手科目の1つでした。全国各地を巡るようになり、各地の酒肴を味わうようになってから興味を覚えました。

 最後にパソコンに関わることといえば、パソコンの組み立てやウェブサイトの構築などがそれに当たるでしょうか。
 しかし、それらは特技というほどのことではないような気もします。確かに子どもの頃から工作は苦手でしたが、中学生のとき「技術」の授業で「製図」だけは好きでした。精巧にできた模型を見ると、それが何の模型でも今日なおわくわくする感覚を覚えます。絵を描くことが不得手な代わりに写真に走ったように、不器用極まりないからこそパソコンのハードやウェブサイトのソフトに関心が向いているのかもしれません。

 

 以上、3つの趣味には相互に結びつきがあり、またそれぞれ仕事に直結しています。

 なんと恵まれていることでしょう!

 仕事と趣味の関係が「本末転倒」にならないよう、自戒したいと思います。


 実は、以上のほかにあまり人に教えていない「隠し芸」があります。しかし、それは事柄の性質上、ここではナイショということに致します。